タイトル:信長になれなかった男たち 戦国武将外伝
著者:安部龍太郎
出版社:幻冬舎新書(2019年1月30日 第一刷発行)
昔から歴史が好きで、大河ドラマや本をよく見ていました。特に戦国時代が好きで、例にもれず三傑である、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、一応なじみ深い偉人として知識を入れていたつもりでいました。といっても伝記的な意味で、どちらかというと物語を知っていた、というレベルですね。なぜ、彼らは天下を目指したのか、なぜ、彼らはそのような政策をしたのか、なぜそのような治世をめざしたのか。。。といったところは、勉強不足でした。安部龍太郎さんというと、信長に関する小説をよく書いている歴史小説家というイメージです。「蒼き信長」や「信長燃ゆ」などですかね。小説を書く際に、現地に赴き、十分な調査や土地勘を得て、執筆されていることが書かれていますし、戦国時代の大名(だけでなく、将兵や民も)が生活をかけて、まさに「生きる」ためにはどうしたらいいかを考えながら生きていたんだ、ということを教えてくれる一冊になっていました。
タイトルに「信長になれなかった男たち」とありましたが、少し違和感を感じるタイトルでした。本書の中では25名の戦国武将が出てきています。彼らが「信長になりたかったが、なれなかった」という風なタイトルにとらえられそうな気がしました。私の解釈では、「現代で、英雄というカテゴリーに入れられていない戦国武将」というニュアンスの方が近い気がしました。本書では、それぞれの武将の壮絶なエピソードを紹介してくれています。また、各章の頭に出てくる、
その土地の雰囲気を伝えてくれる一言
が好きです。今すぐ行ってみたくなってしまいました。
以下、私が心に残った一文です。
“人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。”
これは徳川家康の有名な言葉です。別にこの本じゃなくても載っています(笑)。今回この一文を引用したのは、ちょっと考えることがあったからです。家康の向かている遠き道とは「天下統一」であったでしょうし、重き荷とは「それを達成すること」さらに「家臣やこれまで道半ばで倒れた仲間の無念」もあったでしょう。そのようなものをもし自分が背負っていたら気が狂ってしまいそうです。まあ、そんな大それたものを背負って遠くを目指す必要がないのですが。でも、人によって重き荷が違うのは事実で、だれしも「重き荷」を背負っているのではないかと思いました。自分が背負っているものは何なのか。少し背中(過去を)を見てみようと思ったので、紹介しました。
“日本人のDNAの中には、奥州に犠牲を押しつけ、いざとなれば生け贄にして国家の危機を乗り切るという思考回路が、組み込まれているのではないか。”
東日本大震災に関連した人災とも呼べる災害。もうすぐで9年が経とうとしています。仕事の関係で何度も、被災地を訪れましたが、その都度言葉が出ませんでした。この一文を見て、訪れた時のことを思い出したと同時に、このような視点で奥州(東北)を見たことはなかったと、気づかされました。本の中では、大和朝廷による蝦夷征伐、前九年の役、後三年の役、源頼朝による奥州藤原氏征伐、豊臣秀吉による奥州仕置、幕末の戊辰戦争、東日本大震災、と書かれ、言葉を飲みました。基本的には「征伐」される側なのです。いろいろな形で奥州は、時代によって変化するにせよ政治の中心地から都合よく抑圧されていたのだと、知りました。これは、奥州だけではないのかもしれませんね。各地方のこのような視点でつぶさに見ていくと、同様のことが言えるのかもしれません。
“根本的な原因は現代社会に対する違和感”
内これは、著者の「おわりに」という、いわばあとがき的なところにあった一言です。小説を書くようになった動機、について語っているところでした。この違和感を「道化」によって乗り越える、その道化が小説のベースであり、そういう小説を書くことで、同様の違和感を抱える読者が少しでも良い方向にむかうことを望む、と語っていました。安部龍太郎さんは「本当の戦国時代像を書きたい」とおっしゃっているので、一読者として「読む」という形で貢献したいと思いました。
【終わりに】
本書は、戦国時代や武将、大名の名前だけでも少し基礎知識を入れてからでないと、ちょっと厳しいかもしれませんね。あと、地理についても少しあった方がいいです。この辺が問題ない人&歴史好きにとってみれば、新たな戦国時代の見方を教えてくれる、知的好奇心をくすぐる本です。是非、読んでみてください。
※あくまで私が私の目的で読んだ時の感想です。
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